20255/2FRI
本日開館
桂林寺の馬頭観音立像が、かつて祀られていた観音堂の棟札に天文二十二年の の近くにあった天王寺の本尊として伝来する馬頭観音立像は、一面二臂で、軽く右に傾ぐ姿から、元は三尊像の脇侍であったと考えられる。その構造は、内刳を施さない一木造、漆箔仕上の像で、体幹部は髻、山形冠を含み一材から彫出していることやずんぐりとした短躯の体つきや小さくまとめた三鼻立ちに四角い相好、山形の冠も体躯部と共木で彫出していることなどから、平安時代後期の造像と考えられる。しかも、馬頭観音は、一般に怒りの形相で、諸悪を駆逐し、衆生のあらゆる苦悩を断ち切ることを使命とする仏で、変化観音の中で憤怒相をとるのは馬頭観音だけであることから、伏し目がちの穏やかで優しい相好から、当初は聖観音として造像されたものと考えられる。
桂林寺の馬頭観音立像が、かつて祀られていた観音堂の棟札に天文二十二年の の近くにあった天王寺の本尊として伝来する馬頭観音立像は、一面二臂で、軽く右に傾ぐ姿から、元は三尊像の脇侍であったと考えられる。その構造は、内刳を施さない一木造、漆箔仕上の像で、体幹部は髻、山形冠を含み一材から彫出していることやずんぐりとした短躯の体つきや小さくまとめた三鼻立ちに四角い相好、山形の冠も体躯部と共木で彫出していることなどから、平安時代後期の造像と考えられる。しかも、馬頭観音は、一般に怒りの形相で、諸悪を駆逐し、衆生のあらゆる苦悩を断ち切ることを使命とする仏で、変化観音の中で憤怒相をとるのは馬頭観音だけであることから、伏し目がちの穏やかで優しい相好から、当初は聖観音として造像されたものと考えられる。