202412/12THU
本日開館
明智光秀は、丹波攻めに際して亀山を拠点にし城を築いた。この書状は、天正5年(1577)のものとされ、亀岡の旧名「亀山」の初見で、この頃から「亀山」の地名が使われ始めた可能性がある。宛先の「小左」とは小畠左馬進永明、「長又五」は長沢又五郎のことで、桑田郡別院(亀岡市)の国人と考えられ、中沢とも呼称したといわれる。内容は「2月5日から10日まで亀山惣堀普請を命じる。その代わり、森河内への番替は12日まで延期する」というもので、惣堀普請については「鋤・鍬・もっこ」を用意して亀山に行くように命じている。
明智光秀は、丹波攻めに際して亀山を拠点にし城を築いた。この書状は、天正5年(1577)のものとされ、亀岡の旧名「亀山」の初見で、この頃から「亀山」の地名が使われ始めた可能性がある。宛先の「小左」とは小畠左馬進永明、「長又五」は長沢又五郎のことで、桑田郡別院(亀岡市)の国人と考えられ、中沢とも呼称したといわれる。内容は「2月5日から10日まで亀山惣堀普請を命じる。その代わり、森河内への番替は12日まで延期する」というもので、惣堀普請については「鋤・鍬・もっこ」を用意して亀山に行くように命じている。